胎内市飯角地域の観察露頭


 胎内市飯角地内でかつて採土現場となった丘陵地があった。現在では段丘堆積層からその下部の新第三紀層まで採掘しつくして放置されている場所がある。
地権者が異なる境界まで切り取られて、その残りの丘陵地が、現在観察可能な露頭である。(立ち入りには地権者の許可が必要)

 右の画像は、採石によって切り取られた飯角の丘陵地断面である。ABで地質が異なることがわかる。
A
の地層は、灰白色のシルト質泥岩層から成り、Bの部分は、全体に黄褐色を帯びた砂礫、粘土や細礫、大礫などの互層から成る。
 

A層とB層の境界では、中〜大礫を含む礫層が見られ、典型的な不整合の基底礫である。
A
層は、半山、小中山に見られた傾斜層とつながる。層序は小中山や半山の上部に当たるものと思われ、新潟県の標準層序では、西山層(地域層序で鍬江層)相当と考えられる。本地層からは貝化石を採取している。
 

 傾斜した泥岩層や不整合の存在、貝化石が見つかることから、地域の地質発達史(地史)を県の地史と対比しながら考察してみよう。
@古日本海時代にA層を含む泥や砂が厚く堆積した。先に堆積した泥には動植物遺骸を多く含むものがあり、原油、天然ガスのもとになった。(新第三紀中新世〜)
A古日本海における堆積は、さらに進行し厚さを増すとともに、動植物遺骸は続成作用により原油や天然ガスを生成した。また、浅海域では魚、貝、ウニなど生物も生息し、遺骸は泥とともに堆積した。(新第三紀中新世〜鮮新世)
B列島脊梁部から徐々に隆起が始まるとともに古日本海は浅海化し、剥離された砂泥や火山灰などが堆積し、丘陵地を覆うようになる。(第四紀洪積世〜)
Cやがて五頭山塊や海底火山活動が終息した櫛形山塊の隆起が起こるとともに、氷河期と間氷期の繰り返しで海水面の変動(海進、海退)が繰り返される。(洪積世中期〜)隆起で押し分けられるように厚く堆積した新第三紀泥岩層は、海側に傾斜しながら海面上に顔を出した。そこに何度か海水面変動が起こり海面上にでた泥岩層は浸食された。浸食された面には新たに剥離物や運搬物が堆積し、不整合に堆積することになった。(第四紀洪積世後期、段丘形成の時代)
D海水面の大きな変動が収まると低地に剥離浸食運搬物が堆積し、平野を形成した。(第四紀沖積世〜、沖積平野)

 Bの部分は、南側からの面である。これと反対の北側に観察可能な露頭がある。地質的には、下部新第三紀泥岩層を不整合に覆っている第四紀段丘堆積層である。



 立ち位置は、不整合面上になる。露頭は第四紀段丘堆積層の下部、砂礫層が中心。中に赤褐色の粘土層を挟んでいる。
次の画像はこれより上位層にあたる露頭で、中〜大礫が顕著である。堆積物が水平でなく、乱堆積の様相を呈している。

 

 さらに上位層が次の画像である。最上部から礫層、砂礫、シルト質粘土の互層が見られる。


 

胎内市塩谷の新第三紀泥岩層の岩油層(寺泊、七谷層相当)

 胎内川を渡った塩谷地域にも新第三紀泥岩層が分布している。その中で岩油層が地表近くに分布するので、縦穴を掘ってしみ出た原油を採取していた油井が残っている。付近の窪んだ場所には、現在でも地下水と一緒に原油が出ており(油壺)、毎年7月1日、「燃える水」献上用の採油儀式が行われている。

  


見られなくなった胎内市の露頭

 新発田から国道7号線を村上方向へ向かう右手に、日本一小さい山脈「櫛形山脈」が連なっている。
この山体を形成しているのは花崗岩だが、胎内川で山脈が切られる東端、鳥坂山付近では流紋岩や凝灰岩が主になっている。

櫛形山脈の麓、特に胎内市の小中山、小国谷、飯角、半山地域では、泥岩層が分布している。これら泥岩層は、層厚十数メートルにもおよび、西側沖積平野下に傾斜して潜っている。山麓の丘陵地形は、地上部の泥岩層と、それを不整合に覆う洪積層(砂礫層)から成っている。近年、この丘陵地の開発が行われて観察適地が失われつつあります。次の写真は、もう見られなくなった露頭である。(旧加治川村下小中山)


 


鳥坂山に近い半山付近では海底火山噴出物が、続成作用によって変質した粘土層(酸性白土)が泥岩層を押し上げる格好で分布している。
この酸性白土は、シリカゲルや吸着剤などの鉱物原料として今も採掘・利用されている。(写真は(株)水沢化学工場の半山露天掘り場所今は吹きつけや草木に覆われてしまった)



  



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